習い事で上達するコツは、師匠から教えられたことを素直に忠実に真似ることです。これまでの経験から、そう理解してはいるのですが「言うは易し行うは難し」ということを稽古の毎に痛感しています。
最近も「自分の持っているものをいったん忘れて学んでいけば仮に自分が百Wの電球だったら、それが2百W、3百Wの輝きを出すようになれるんだ。」と先生からご指導頂きました。そのずっと前には「素直に聴くようにしなさい」という趣旨のことを言われたこともあります。
通常稽古では、先生は、その日その日に、いくつかのポイントを定め、系統だった指導をされます。たとえ一教、小手返し、四方投げ、呼吸投げと言っても、そのときの指導ポイントがあり、足運び、からだの捌き、手の動きと段階をおって指導されます。先生は、よく手はあってもなくてもいいんだとか、手を使おうとするなと指導されます。手先だけでは腕力の世界になってしまい、先生の指導されている合気道ではなくなるからです。いかに自由にからだ全体を相手の動きに応じて動かせるかが肝心なところで、自分が固まらずしかるべき動きをすれば相手は自ずから崩れると先生は実演してくださいます。今日初めて入門した者も何年稽古している者も同じです。見える動きをある程度なぞれるようになっても、見えない動きがあります。
今日の稽古では、先生はここにポイントを置いて系統立てて指導されているのだなと一応理解できるようになり、自分なりに、そのポイントに沿って稽古しようと努められるようにやっとなれてきたように思います。その私の「努めている」程度が、実際にどの程度なのかは、先ほどの先生のお言葉を聞けば明らかです。恥ずかしい話ですが。
もっとも自分のことは見えないのですが、他人の様子はよく見えるものです。先生は、門下生に、実際にやって見せて、言って聞かせて、やらせて、門下生の出来ていない修正すべきところを個別に、あるいは稽古を止めて皆に指導されます。しかし、初心者は見ていても見えず、聞いても聞こえないことが多く、中級者は見ても自分の見方でしか見ず、聞いても自分の解釈を聞いていることが多いように思えます。たとえ先生の指示されたことを理解できても、からだの方がいうことをきいてくれないこともよくあります。
仕手が受け手に作用させる過程は、例えて言えばニュートン力学に対する量子力学のようなものだと先生は言われます。粒子が波動となって伝わってゆき、また粒子になるようなものだそうです。知識はないのですが、量子力学はニュートン力学の延長線上にはないと思われます。思想体系の転換が必要でしょう。同じように先生の指導してくださっているものを会得するためには、常識的な身体力学を超えた思考体系や身体感覚を養わなければならないように思います。稽古で「錬る」というのは、技を磨き、動けるからだを作るということでしようが、からだの動きを規定している潜在意識の変容がその表裏となっているように思えます。
一方先生は、腕力を超えた合気道は決して摩訶不思議でも神秘的なものでもなく、単純で当たり前のことなのだとよく言われます。例えばコップの酒を口元にもってきて飲み干すようなものだし、相手の口元に運ぶようなものだ、又は赤ちゃんを抱き上げるようなものだ、中心を外して動作しないだろ、重い荷物を担いで運ぶときは自然にからだの中心で担ぐだろうと言われます。それが一番楽に無駄なくできるからです。
「道を外れないように」と先生は稽古生に注意されます。先生の直接の手取足取りのご指導は本当に有り難いことです。このご指導がなければ常識的な身体力学(腕力)を超えた世界を自らの心身で体験することは出来ませんでした。また、先生の直接のご指導がなければ、自分がどれだけ「道を外さない」よう努めたとしても、次の瞬間には道から外れ、そのことに気付くことすら難しいと思います。何が道なのか知らない自分がどうして道の上を歩むことができるでしょうか。感謝です。
2007年3月4日
(Kー1級記 男性)