4年も前のことで恐縮ですが、相半身で手刀を互いに合わせて前後に動きながら、相手を捉えたり、間合いの感覚を養う稽古をしたときです。山本先生が実際に受けを取って動いてくださったことがありました。触れるか触れないかというような実に微妙な接着で滑るように足を後ろに運ばれるのです。先生は当時七十歳になられていたと思いますが、失礼ながらご老人の動きかと思われる速さ滑らかさでした。私も移動するというだけなら何とか動けなくはなかったのですが、腰が上下にドタバタして先生にすかさず注意されました。先生は滑らかに滑るように足を運ばれるのです。真似出来ませんでした。参りました。 <(_ _)>
先生からは、かねてより「もっと柔らかく受けを取るように」とか「山口師範の弟子は、紙が舞い落ちるような受けをとるぞ」とかご指導いただいていました。私も出来るだけ柔らかく受けを取るように心がけていました。しかし、七十歳の先生がいわば体を張って教えてくださった「柔らかい」受けというのは、私の思いの及ばない,自分の経験の中にない質のものでした。先生は、触れるか触れないかという程度の感触の接点を保ちながら、しかも、その接点を通してこちらを捉えて動かれていました。そしてそのまま転ばれるのです。こちらには抵抗感というのはありませんでした。(先生は別の機会に、受けは相手より半歩先に動くようにと言われたこともあります。)
もう二十年近く前になると思いますが、山口清吾師範に当道場の特別講習会で一教を掛けていただいたとき、まだ私は初心者だったのですが、私の腕が山口師範の腕に触れるか触れない間に吸い込まれるようにして畳の上に抑えられてしまったのを覚えています。抵抗感はまったくなく,初心者の私は、何かわけの分からないまま自分から動いて畳の上に横たわってしまったような、失礼ながら何か狐につままれた感じがしたものでした。
柔らかい受けを取れるようになるためには、からだが本当に自由に動けるようにならなければいけないなとやっと納得できるようになりました。(哀しいかな,やっと分かってきたときには,今度は体の方がなかなかいうことを聞いてくれない歳になってしまいました(/_;))そしてからだが自由に動けるためには心が自由でなければうまくいかないと思います。「投げてやる!」「投げてみろ!」と,心に力みがあれば、心と体は一つですから、からだにも力みが出て,その分、からだのどこかが固まり,相手に動きを読まれてしまうし,力と力の確執になると思います。実はこれも先生に日頃言われていることなのですが、自分の中である程度の体感ができて来ないと、先生の言葉が凍結状態で,自分を変えてくれる生きた言葉として解凍できないのです。分かったということは,心身が変化し,そのように動けるようになるということなのでしょう。
2007年03月04日
(T-2段 記)